~浄土真宗が1からわかるブログ~
遍照の光明と摂取の光明|浄土真宗の教え
阿弥陀如来の光明の働きに、大きく分けて二つあることを親鸞会で親鸞聖人の教えを学ぶ知人から教えてもらいました。
「遍照の光明」と「摂取の光明」の二つです。
「遍照の光明」とは、〝遍く照らす〟とあるように、大宇宙のすべての衆生にかかっている阿弥陀如来のお力です。
アメリカ人にも中国人にもアフリカの人も日本人にも、古今東西の人々すべてに働いています。
この光明に照らされていない人は、一人もありません。
次に「摂取の光明」とは、「摂取不捨の幸福」に救い摂る弥陀のお力をいわれます。
政治も経済も、科学も医学も、法律、芸術、スポーツなどあらゆる人間の営みは、幸福の追求以外にありません。ストレスに耐えて働くのも、資格取得や大学受験に励むのも、スキルアップに努め時間の使い方を工夫するのも、いろんな健康法やダイエットを試したり、合コン・婚活、プチ整形、ファッション、温泉めぐりや食べ歩きなど趣味や生き甲斐もすべて、よろこびや満足を求めてのことでしょう。
しかも私たちは決して、〝夢のまた夢〟と消える幸せのために生きているのではありません。
一切の滅びる中に、滅びざる真の幸福こそ、私たちの願いであり、人生究極の目的です。
その「摂取不捨の幸福」に一念で救い摂る阿弥陀如来のお力、人生の目的を果たさせるお力を「摂取の光明」といわれ、『正信偈』では「摂取の心光」と言われているのです。
「一念」とは、何兆分の1秒よりも短い時間のことをいいます。
阿弥陀仏の「摂取の光明」によって「摂取不捨の幸福」に救い摂られるのは、アッという間もない一瞬であると、親鸞聖人は教えられています。
この「一念の救い」に遇わせるまで、何としても導かんと、大宇宙すべての人を照らして、押したり引いたり、ああもしたら、こうもしたらと種々に働いてくだされている阿弥陀仏のお力が、「遍照の光明」です。
これを「調熟の光明」ともいわれます。
「調熟」とは、一念で人生の目的を果たすところまで、私たちの心を調え、誘導し、押し出し、引っ張ってくだされることをいいます。
例えて言うと、集合写真を撮影する際にカメラマンが、
「はい皆さん、前の人の顔と顔の間から見えるようにしてください」
「二列目の方、中腰になってください」
「後ろの方、はいあなたです、気持ち右に寄っていただけますか……」
「赤い服の方、少しお顔が隠れていますので左に……」
などと、撮影できる状態になるまで調整するようなもの、といえるでしょう。
シャッターを押すのは一瞬でも、そのための調節が、どうしても要るのです。
阿弥陀如来は、どうすれば私たちに「摂取不捨の利益」を与えることができるかと、種々にご苦労なされています。仏とも法とも知らなかった私が照育されて、無常と罪悪に驚き、後生の一大事を知らされ、仏法を真剣に聞かずにおれなくなる。
そしてやがて「摂取の光明」に遇わせるところまで、私たちの心を調えてくださる、その阿弥陀仏のお働きを「調熟の光明」といわれ、これは大宇宙すべての人に差別なく平等にかかっているお力ですから、「遍照の光明」といわれるのです。
このように阿弥陀如来の光明には、「遍照(調熟)の光明」と「摂取の光明(心光)」と、二つの働きがあることをよく知っていただきたいと思います。
二つの光明の違いを一言で言えば、「遍照の光明」はすべての人を照らしているお力ですが、「摂取の光明」は、人生の目的を果たした人だけにかかっている。ここが、まったく違うところです。
浄土真宗の救いは、一念で弥勒菩薩と同格に
仏教の真髄を明らかにされたのが親鸞聖人であり、浄土真宗の教えです。
仏教には、本当の幸福とは何かをハッキリと教えられています。
その本当の幸福とは、生きている現在ただ今、一念で正定聚不退転の絶対の幸福に救い摂られることだと、親鸞聖人は明らかにされました。
親鸞聖人は、ご自身が正定聚不退転の絶対の幸福に救い摂られた喜びを、浄土真宗の根本聖典『教行信証』に次のように記されています。
真に知んぬ。弥勒大士は、等覚の金剛心を窮むるが故に、龍華三会の暁、当に無上覚位を極むべし。
念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。
初めに「真に知んぬ」と言われているのは、「親鸞、ハッキリ知らされた」という確言です。「たぶんこうだろう」という曖昧な憶測でもなければ、「私はこう思う」などという想像でもありません。ご自身が明らかに弥陀に救い摂られ、知らされたことを、
「まことであった、本当であった」
と高らかに叫ばれているのが、親鸞聖人の「真知(真に知んぬ)」です。「あまりにも明らかに知らされた」驚嘆の叫びなのです。
では、どんなことが「ハッキリ知らされた」とおっしゃっているのでしょうか。
「弥勒大士」とは、有名な弥勒菩薩のことです。「菩薩」とは、仏のさとりに向かって修行中の人のことです。いろいろな位の菩薩がある中で、弥勒菩薩は、仏のさとりにもっとも近い等覚(51段のさとり)を開いていることを、
「弥勒大士は、等覚の金剛心をきわむるがゆえに」
と言われています。あの面壁9年の達磨(だるま)でも、30段そこそこであったのですから、51段のさとりを開いている弥勒が、いかに勝れた菩薩であるか、お分かりでしょう。
その等覚の弥勒菩薩は、
「龍華三会の暁、当に無上覚位をきわむべし」
“56億7千万年後に、仏のさとりを開く”
と親鸞聖人が言われているのは、お釈迦さまがお経の中に、
「この釈迦の次に、地球上で仏のさとりを開くのは弥勒である。それは、56億7千万年後のことである」
と説かれているからです。その弥勒菩薩と比較して、
「念仏の衆生は、横超の金剛心をきわむるがゆえに、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す」
と宣言されています。
「念仏の衆生」とは、阿弥陀仏に救われた人のことであり、親鸞聖人自らのことです。
「横超の金剛心」とは、「正定聚」のことです。絶対壊れない幸福ですから、金剛心(ダイヤモンドのように硬い、不変の信心)と言われています。
あの弥勒菩薩は、気の遠くなるような長期間の自力修行によって、さとりの位を一段一段上り、ようやく51段まで到達したけれども、「念仏の衆生」の親鸞は、阿弥陀仏の本願力によって、一念で51段を高飛びさせられ「正定聚」の身に救い摂られたのだ、という大自覚を、
「横超の金剛心をきわむるがゆえに」
と告白され、
「臨終一念の夕、大般涅槃を超証す」
“一息切れると同時に、阿弥陀仏と同じ仏のさとりを開くことができるのだ”
と明言されているのです。
「本当にそうだったなぁ! あの弥勒菩薩と、今、同格になれたのだ。まったく阿弥陀仏の本願力不思議によってのほかはない。しかもだ。弥勒は56億7千万年後でなければ、仏のさとりが得られぬというのに、親鸞は、今生終わると同時に浄土へ往って、仏のさとりが得られるのだ。こんな不思議な幸せが、どこにあろうか」
この世から未来永遠の幸福に救い摂る阿弥陀仏の本願まことを真知させられた親鸞聖人の、大慶喜なのです。
この阿弥陀仏の本願の救いを明らかにせられたのが親鸞聖人であり、浄土真宗の教えです。
浄土真宗で教えられる本当の幸福とは?
浄土真宗の祖師、親鸞聖人は私見を交えず、仏教をそのまま伝えられた方である、ということをお話し致しました。
その仏教とはどんな教えなのか、前回、紹介致しました。
仏教は、すべての人が本当の幸福になれる道を明らかにされた教えです。
では、ここで言われる本当の幸福とは、いったい何でしょうか?
本当の幸福とは、絶対に崩れない、色あせない、未来永劫続く幸せのことです。
そんな幸せなんてあるの?と思われる方もありましょうが、あるのです。
それを明らかにされた方が、お釈迦様であり、親鸞聖人なのです。
その幸せを、浄土真宗の蓮如上人は、「一念発起・入正定之聚」と書いておられます。
「正定之聚」とは、「正定聚」ともいわれ、一念で「絶対の幸福」になったことを言われています。
ここで「正定聚」とは、さとりの位をいうのです。
「さとり」といっても、低いさとりから高いさとりまで全部で52の位があり、これを仏教で「さとりの52位」といわれます。ちょうど相撲取りにも、下は褌担ぎから上は大関・横綱までいろいろな位があるようなものです。
52のさとりには、それぞれ名前がついており、中でも最高のさとりの位を「仏覚」(仏のさとり)といわれるのです。これ以上のさとりはないから、「無上覚」ともいわれます。
さとりが一段違えば、人間と虫けらほどの境涯の差があるといわれるのですから、52段の仏覚が、いかに崇高で想像も及ばぬ境地であるか、お分かりになるでしょう。
その最高無上の仏覚まで到達された方のみを、「仏」とか「仏さま」といわれるのであって、死んだ人を「仏」というのは大変な間違いです。
今日まで、この仏覚を開かれ「仏」となられた方は、地球上ではお釈迦さま以外にはありません。これを「釈迦の前に仏なし、釈迦の後に仏なし」と言われます。
中国で天台宗を開いた天台も、「9段目までしか覚れなかった」と臨終に告白していますし、また、壁に向かって9年間(面壁九年)、手足腐るまで修行し禅宗を開いた達磨大師でも、30段そこそこであったと言われます。
仏の覚りを開くことが、いかに大変なことかが分かります。
「正定聚」とは、その仏に間違いなく(正しく)なれると定まった人たちのことであり、51段のさとりの位をいうのです。
絶対に崩れない位ですから、「正定聚不退転」とも言われます。「不退転」とは、後戻りしない、壊れない幸せ、ということで、今日の言葉で「絶対の幸福」と言えましょう。”必ず浄土へ往って仏になれる”大満足であり、何ものも往生のさわりとならない「無碍の一道」(歎異抄)であり、「人間に生まれてよかった」という生命の大歓喜なのです。
浄土真宗の祖師・親鸞聖人の教えられた仏教とは?
前回、浄土真宗、親鸞聖人の教えと言っても、仏教以外にないことを学びました。
親鸞聖人は、お釈迦様の説かれたことをそのまま伝えられた方だとわかります。
では、仏教を説かれたお釈迦様とは、どんな方なのでしょうか。
親鸞会で学んできた話を通して簡単にご説明しましょう。
お釈迦様は、釈尊とも言われますが、今から約2600年前、インドで活躍されたお方です。
35歳12月8日に、数ある悟りの中でも最高の仏のさとりをひらかれ、80歳2月15日にお亡くなりになりました(仏様が亡くなられることを涅槃の雲に隠れられるともいいます)。
その45年間、仏として説かれたみ教えを、今日仏教と言われるのです。
仏と聞くと、死んだ人のことだと思っている人があるようですが、それは間違いです。
「あそこのお婆さん、とうとう仏になってしまった」
とか、葬式に行きますと、
「こんな死に顔の仏様、見たことない」
とか聞こえてきます。
仏=死人とすると、仏教は、死んだ人が説いた教えということになりますから、これは大変な間違いとお分かりになるでしょう。
仏とはさとりの名前をいいます。
一口に“さとった”といっても、さとりには低いさとりから高いさとりまで、全部で52の位があります。
ちょうど相撲取りでいえば、下はふんどし担ぎから、上は大関、横綱までいろいろあるように、さとりにもピンからキリまで52の位があり、それぞれ名前がついています。
その下から52段めの最高のさとりを仏のさとり(仏覚)といいます。これ以上、上がないので無上覚ともいわれます。
では、いったい何をさとるのでしょうか?
これは、大宇宙の真理をさとるということをいいます。
しかし、真理と言っても、世の中にはいろいろの真理があります。数学的真理、科学的真理など様々です。ここで言われる真理とは、すべての人が本当の幸福になれる真理のことなのです。
さとりを開いていくことを、山登りに例えると、1合目よりも2合目、2合目よりも3合目と、登れば登るほど見える景色は広がっていき、最後、頂上まで上り詰めたとき、あたり一面を見渡すことができるようになるようなものです。
一段違えば、人間と犬や猫ほど境界が違うといわれ、手足が腐るほど修行したインドの達磨でさえ、30段程度までしかさとれなかったといいますから、“死人=仏”がいかに間違いであるかが分かるでしょう。
地球上で仏のさとりまで到達された方は、今日までお釈迦様だけです。これを「釈迦の前に仏なし、釈迦の後に仏なし」といわれます。
仏のさとりを開かれ、大宇宙の真理を体得されたお釈迦様が、私たちを本当の幸福にするために説かれた教えが仏教だとわかります。
浄土真宗を明らかにされた親鸞聖人
浄土真宗を明らかにされた方は親鸞聖人です。日本史でも習いましたね。
でも、親鸞聖人はどんな方なの?と聞かれると、今ひとつよくわかりません。
親鸞聖人のことを詳しく載せているサイトとして、親鸞会のサイトがお勧めですが、ここは初心者向けのあなたに、簡単に説明をしたいと思います。
親鸞聖人は今から約850年前(平安末期)、京都にお生まれになりました。4歳でお父さん、8歳でお母さんと死別。諸行無常の現実に驚かれた親鸞聖人は、9歳で出家、比叡山天台宗の僧侶となられました。
しかし、29歳の時、20年間の天台・法華の教えに絶望。下山を決意します。
同じ年、京都・吉水の法然上人から教えを受け、信心決定(しんじんけつじょう:阿弥陀如来の本願に救い摂られること)なされました。
以後、90歳でお亡くなりになるまで、すべての人が本当の幸福になれるたった一本の道、阿弥陀仏の本願一つを説き続けられました。
歴史の勉強をしていますと、浄土真宗は、よく鎌倉新仏教といわれます。
「親鸞聖人が新しく作った教え?」
との思いも出てきますが、実際のところ、どうなのでしょう。
これについては、親鸞聖人がご自身でハッキリと答えておられる言葉がありますのでご紹介しましょう。
「更に親鸞珍らしき法をも弘めず、如来の教法をわれも信じ人にも教え聞かしむるばかりなり」
これが、親鸞聖人がいつも仰っていたことでした。
「珍しき法」とは、今までだれも教えなかった教えのこと。もし、親鸞聖人が独自に考え出されたものがあれば、「珍しき法」になりますが、「弘めず」とありますから、そんな珍しい教えは何もなかったことがわかります。
「如来の教法」とは釈迦如来の教え、お釈迦さまが説かれた仏教のことです。
「親鸞は、今までだれも説かなかった新しい教えを説いているのではありません。お釈迦さまの説かれた仏教を私も信じ、皆さんにもお伝えしているだけなのです」
と明言されています。浄土真宗、親鸞聖人の教えといっても、仏教以外にはないことがわかりますね。
では、今回はこの辺で。
そもそも浄土真宗とは?
皆さんは、「浄土真宗」と聞くと、何を思い浮かべますか?
お墓?お葬式や法事?
いえいえ、それらは儀式的なもので、浄土真宗の中身ではありません。
浄土真宗以外でもやっていることですよね。
浄土真宗を開かれたのは、親鸞聖人です。
浄土真宗といえば、やっぱり「親鸞聖人」と答えたいです。
浄土真宗は、仏教の一宗派で、他の仏教の宗派には、天台宗、真言宗、禅宗、浄土宗などいろいろあります。
もともとお釈迦様が説かれた教えで、始めは1つだったのに、それがどうしてこんなにたくさんの宗派に分かれてしまったの?と疑問に思う人も少なくありません。
浄土真宗と言っても、その中の一つでしょ?と思われる方も多いでしょう。
今では、葬式や法事、墓参りぐらいでしか仏教と関わることはなくなってしまったので、身内に不幸がない限り、お経を読んだり、寺に参ったりすることもありません。
だから、だいたいのイメージで「こんなものだろう」と思っている以上のことはわからないのが本音だと思います。
そこで、ちゃんと1から学べる機会を、このブログを通じて、設けたいと思うんです。
浄土真宗を1から学んでみる、ってことです。
素朴な疑問っていろいろありますよね。
だいたい、あのお経って何なの?わけわかんないし、意味わかんないし。
お布施って何なの?お坊さんにお金を渡すこと?金額って決まってるの?
身内に不幸があったとき、仏壇ってやっぱり買わないといけないの?死んだ人に悪い?
お墓っているの?どうしたらいいの?先祖代々の墓でないといけないの?
他にもいっぱい疑問ってあると思う。
そういう疑問って、どうしてもお金がかかったりして、だいたいどうしてこんなにお金がかかるの?かける必要あるの?っていう疑問から出てくるものが多いと思います。
そういうことも、1から学んでいくと、スッキリ解決できてしまうと思います。
浄土真宗を学んでいきましょう!
浄土真宗の開祖 親鸞聖人・6
親鸞会という浄土真宗の集まりで聞いた浄土真宗の開祖、親鸞聖人の御一代についての6回目です。
親鸞聖人は、9歳で出家され、比叡の山で20年間、天台宗で法華経の修行に打ち込まれます。
修行は煩悩との格闘です。
煩悩は108つあると教えられ、なかでも恐ろしい毒をもっているものを三毒の煩悩といいます。
三毒の煩悩とは、貪欲(とんよく)、瞋恚(しんに)、愚痴(ぐち)の三つです。
浄土真宗の開祖 親鸞聖人・5
親鸞会という浄土真宗の集まりで聞いた
浄土真宗の開祖、親鸞聖人の御一代についての5回目です。
親鸞聖人は、9歳で出家され、比叡の山で20年間、天台宗で法華経の修行に打ち込まれます。
仏教は、大きく、浄土仏教と聖道仏教とに分けて教えられています。
天台宗は、聖道仏教に属します。
修行によって、煩悩と格闘する教えです。
浄土真宗の開祖 親鸞聖人・4
親鸞会という浄土真宗の集まりで聞いた
浄土真宗の開祖、親鸞聖人の御一代についての4回目です。
親鸞聖人は、9歳で出家され、比叡の山で20年間、煩悩と格闘されます。
煩悩とは、108の煩悩ともいわれるように、108つあります。
人間は、煩悩に目鼻つけたような存在で、煩悩具足の凡夫、と言われます。
ちょうど、雪だるまから雪をとったら、何も残らないように、人間から煩悩を取ったら、何も残らないのです。
浄土真宗の開祖 親鸞聖人・3
親鸞会という浄土真宗の集まりで聞いた
浄土真宗の開祖、親鸞聖人の御一代についての3回目です。
親鸞聖人は、9歳で出家され、比叡の山で法華経の修行を20年なされます。
その間、千日回峰行や、大曼の難行までやりとげられましたが、
そうにも後生暗い魂の解決ができません。
見えてくるのは、恐ろしい煩悩ばかり。
煩悩とは、108の煩悩ともいわれるように、108つあります。
除夜の鐘を108回撞くのもそのためです。
煩悩という字は、煩い悩む、と書きますように、人は煩悩で煩い悩み苦しみます。
親鸞聖人は修行に励めば励むほど、煩悩の醜さが見せ付けられて苦しまれるのです。