~二つの仏教・浄土仏教と聖道仏教の違い~
【浄土真宗の「成仏」とは】
4月15日の記事で、「千日回峰行」について書きました。
今年の9月18日に、戦後13人めの、千日回峰行を満行した人がありました。
光永圓道氏です。
(詳細はこちら↓ 中外日報より)
http://www.chugainippoh.co.jp/NEWWEB/n-news/09/news0909/news090919/news090919_04.html
平成15年3月からですから、6年半、かかったことになります。
しかし、光永氏の修行は、これで「完成」したのではありません。
仏教の究極の目的である「成仏」に至るものではないのです。
浄土真宗の祖師・親鸞聖人は、「成仏」について、どのように教えられているのでしょうか。
真に知んぬ。弥勒大士は、等覚の金剛心を窮むるが故に、龍華三会の暁、当に無上覚位を極むべし。念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。
(教行信証)
「本当にそうだったなぁ! あの弥勒菩薩と、今、同格になれたのだ。まったく弥陀の誓願不思議によってのほかはない。しかもだ。弥勒は56億7千万年後でなければ、仏のさとりが得られぬというのに、親鸞は、今生終わると同時に浄土へ往って、仏のさとりが得られるのだ。こんな不思議な幸せが、どこにあろうか」
弥勒大士とは、仏のさとりにもっとも近い、等覚というさとりを得ている菩薩のことです。その弥勒と同等になるのですから、“よくぞ人間に生まれたものぞ”という生命の歓喜は、生涯、変わりません。
「真に知んぬ」とは、「あまりにも明らかに知らされた」驚嘆の叫びでしょう。
「今は弥勒と肩を並べる身であるが、死ねば、先に仏のさとりが得られるのだ」
との大自覚を表明されています。
細かい説明は省きますが、浄土真宗では、生きている今、弥陀の本願に救いとられた人は、今生終わると同時に、仏に成れるのだと教えられています。
その「仏になれる身」になることこそが、人生の目的であり、それは生きている今完成できるから、達成せよ、というのが親鸞聖人唯一のメッセージだったのです。
三輪空
浄土真宗をはじめとした浄土仏教と、天台宗、真言宗、禅宗などの聖道仏教の違い
について書いています。
浄土真宗をはじめとした浄土仏教は、在家の仏教
天台宗、真言宗などの聖道仏教は、出家の仏教
といわれます。
在家の仏教とは、山にこもったりせず、家庭をもったまま、ふつうの生活を
しているままで仏教を求めるものです。
出家の仏教とは、山などにこもり、結婚もせず、肉もたべず、修行にうちこみ
仏教を求めるものです。
言葉をかえていいますと
浄土仏教(浄土真宗など)では、煩悩あるままで本当の幸福を求める
聖道仏教(天台宗、真言宗など)では煩悩を絶って本当の幸福を求める
というものです。
前回は仙厓和尚を通して話をしていました。
今回は予告どおり、布施をした時のこころがまえ、三輪空についてです。
仏教では、三輪空が成されねば真実の布施とはされません。
「三輪」とは、施者と受者と施物をいいます。この三つが空ぜられねば真の布施行とはならないのです。
「施者を空ずる」とは、「施した者は、施したことをすぐに忘れなくてはならぬ」ということ。いわんや、「施したことによって名を売ろう」とか、「どんな報いが来るだろう」などと考えたりするようでは布施にならない、と教えられています。
次に、「受者を空ずる」とは「あの人に施したのだ」「あの人は私の施しによって生きているのだ」というような心も、捨てねばならぬ、ということです。
次に「施物を空ずる」というのは、施したものに心をかけぬことをいいます。「これこれの大切なものを施したのだ。金に換算するとこれくらいになる」などと思う心があっては、これまた布施にはならぬというのです。
確かに仙厓には、施してやったという意識があり、だから乞食の礼の一言を待つ心もあった。それを当てにして楽しんでいた、あさましい自己を、乞食にすっぱ抜かれ驚いたのです。
六度万行の中の「布施」だけ取り上げても、これだけの心掛けが要ることを知れば、「聖道の修行」を完遂することのいかに難事であるか、痛感させられます。
浄土真宗の開祖、親鸞聖人もそのことに苦しまれた方でありました。