~二つの仏教・浄土仏教と聖道仏教の違い~
天台宗の千日回峰行
浄土真宗をはじめとした、浄土仏教と、天台宗、真言宗、禅宗などの聖道仏教の違いについて書いています。
同じ仏教でも、浄土仏教と聖道仏教では大きく違う点があるのですよ。
浄土仏教では修行というものはありません。もちろん、日常生活のうえでの「善」は大切ですが、修行によって煩悩をなくそうとする教えてではないのです。
聖道仏教は修行して煩悩をなくそうとする教えです。
有名なものに比叡山の、千日回峰行といわれるものがあります。
ちなみに浄土真宗の親鸞聖人も最初は比叡山で修行をされていました。
では、千日回峰行とはいかなるものでしょうか?
比叡山の天台宗は『法華経』の教えを如実に修行せんとする宗派ですが、聖道自力難行の名にふさわしく、今でも千日回峰行なる荒行があります。まず十二年間は、結界の中で修行し、山から下りない厳しい不文律があります。
真夜中の零時前に起床して、山上山下の行者道を三十キロ(七里半)歩くのです。この間、堂塔伽藍や山王七社、霊石、霊水など約三百カ所で所定の修行をします。むろん、雨風雪、病気になってもやめることはできません。もし途中で挫折した時は、持参の短刀で自害するのが山の掟になっています。
初めの三年間は毎年百日、次の二年間は毎年二百日、その翌年は百日、最後は二百日間、休まず修行しなければならず、とりわけ大変なのが、最後の年に百日続ける「大回り」です。山を下りて京都の修学院から一乗寺、平安神宮、祇園と一日八十四キロ(二十一里)を十七、八時間で回る生死関頭の苦行です。幕末から今日までやり遂げた者は十数人という、文字どおり命懸けの修行です。
しかもなお、仏覚には程遠い初歩の段階なのです。
浄土真宗の開祖・親鸞聖人は、九歳から二十九歳まで二十年間、その千日回峰行よりも、さらに厳しい「大曼の難行」に、全身全霊打ち込まれましたが、魂の解決は、なりませんでした。
「この一大事、どこかに導きくださる大徳はないのか、高僧ましまさぬか」と、思い出深き比叡をあとに、泣き泣き下山された聖人が、間もなく、
「どんな極悪人も
必ず助ける
絶対の幸福に」
と誓われた「弥陀の本願」を説かれる、法然上人に巡り会われたのです。その「弥陀の本願」によって救い摂られた聖人が、
「極悪の親鸞が、弥陀の本願のお目当てだった」
と叫ばれたお言葉が、
「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人が為なりけり、されば若干
の業をもちける身にてありけるを、助けんと思し召したちける本願のかたじけなさよ」
若干の業(そくばくのごう)・・・量りしれない悪業
なのです。
このように浄土真宗では、恐ろしい悪業をもったものが全ての人間と知らされ、その悪一杯の人間が煩悩をもったままで救われる教えなのです。