~二つの仏教・浄土仏教と聖道仏教の違い~
三輪空
浄土真宗をはじめとした浄土仏教と、天台宗、真言宗、禅宗などの聖道仏教の違い
について書いています。
浄土真宗をはじめとした浄土仏教は、在家の仏教
天台宗、真言宗などの聖道仏教は、出家の仏教
といわれます。
在家の仏教とは、山にこもったりせず、家庭をもったまま、ふつうの生活を
しているままで仏教を求めるものです。
出家の仏教とは、山などにこもり、結婚もせず、肉もたべず、修行にうちこみ
仏教を求めるものです。
言葉をかえていいますと
浄土仏教(浄土真宗など)では、煩悩あるままで本当の幸福を求める
聖道仏教(天台宗、真言宗など)では煩悩を絶って本当の幸福を求める
というものです。
前回は仙厓和尚を通して話をしていました。
今回は予告どおり、布施をした時のこころがまえ、三輪空についてです。
仏教では、三輪空が成されねば真実の布施とはされません。
「三輪」とは、施者と受者と施物をいいます。この三つが空ぜられねば真の布施行とはならないのです。
「施者を空ずる」とは、「施した者は、施したことをすぐに忘れなくてはならぬ」ということ。いわんや、「施したことによって名を売ろう」とか、「どんな報いが来るだろう」などと考えたりするようでは布施にならない、と教えられています。
次に、「受者を空ずる」とは「あの人に施したのだ」「あの人は私の施しによって生きているのだ」というような心も、捨てねばならぬ、ということです。
次に「施物を空ずる」というのは、施したものに心をかけぬことをいいます。「これこれの大切なものを施したのだ。金に換算するとこれくらいになる」などと思う心があっては、これまた布施にはならぬというのです。
確かに仙厓には、施してやったという意識があり、だから乞食の礼の一言を待つ心もあった。それを当てにして楽しんでいた、あさましい自己を、乞食にすっぱ抜かれ驚いたのです。
六度万行の中の「布施」だけ取り上げても、これだけの心掛けが要ることを知れば、「聖道の修行」を完遂することのいかに難事であるか、痛感させられます。
浄土真宗の開祖、親鸞聖人もそのことに苦しまれた方でありました。
禅宗の仙厓(せんがい)
日本で一番多い宗派は浄土真宗だそうですが、浄土真宗と浄土宗って兄弟みたいなものなの?
とか、同じ仏教なのになんで浄土真宗とか天台宗とか禅宗とかあるの?
と思われたことがある方も少なくないと思います。
このブログでは、浄土真宗をはじめとした、浄土仏教と、天台宗、真言宗、禅宗などの聖道仏教の違いについて書いています。
同じ仏教でも、浄土仏教と聖道仏教では大きく違う点があるのですよ。
つまり、
浄土仏教(浄土真宗・浄土宗など)では煩悩あるがままで救われますが、
聖道仏教(天台宗、真言宗、禅宗など)では煩悩を、何とかしなければなりません。
たとえば聖道仏教の仙厓(せんがい)という人には次のような話があります。
九州博多、聖福寺の和尚、仙厓は、近代禅宗の高僧として有名である。この仙厓が、ある冬の日、寒そうに橋の下で、震えている乞食を眺めてかわいそうに思い、自分の着ているものを一枚脱いで投げ与えた。乞食はそれを受けてすぐに着たが、何の言葉もない。
そこで仙厓、
「どうだ、それで少しは暖かくなったか」
と声をかけると、乞食キッ、と仙厓をにらんで、
「当たり前だ、着ない前より暖かいのに決まっている。おまえさんこそ喜べよ、俺はごらんのとおり裸一貫、施したいと思っても意に添わぬ。与えられる者よりも、与えることのできる身分を喜べよ」
と諭され、生涯の戒めとしたといいます。
お礼を求める心、これは煩悩ですよね。
仏教では、布施をした時、このお礼を求める心をなくすようにと教えられています。
これを三輪空の実践といいます。
そのことについては、次回に書きたいと思います。
聖道仏教とは?
このサイトは浄土真宗について知っていただくために仏教の宗派のい違いについて
書いています☆
浄土真宗とか、天台宗とか、真言宗とか、いろんな宗派の名前を聞いたことは
あるけれど、違いがまったく分からない、という方は決して少なくないと思います。
私もそうでした。
そこで、まずたくさんある宗派を大きく2つにまとめてみましょう。
仏教は大きく以下の2つにまとめられます。
・浄土仏教(他力仏教)・・・浄土真宗、浄土宗
・聖道仏教(自力仏教)・・・天台宗、真言宗、禅宗など
これは私のオリジナルではなくて、仏教の一般常識なんですね。
でも、日ごろ仏教に触れる機会がないと思いますので、仏教では常識でも
一般ではあまり知られていないわけです。
天台宗、真言宗などの聖道仏教は、煩悩のなくして本当の幸せになろう、という教え、
浄土真宗などの、浄土仏教は、煩悩あるままで本当の幸せになろう、
という大きな違いがあります。
最初に「本当に私たちは煩悩をなくし助かるのか」、というテーマで
進めております。
今日は●真言宗の刈萱道心(かるかやどうしん)●です。
かの有名な刈萱道心は、元は加藤左衛門繁氏といって筑前、筑後、肥後、肥前、大隅、薩摩の六カ国の探題であった。
ある日、箱崎の桜見物に行き、桜花らんまんと咲き誇っている下で酒宴中、一片の花びらが杯の中に散り込んだのを見て、いたく無常を感じ、帰館した。
その夜彼は、妻の千里と愛人の須磨が表面は仲良さそうに一室で琴を合奏していたが、ふと障子に映った彼女たちの頭髪が大蛇となって噛み合っているすさまじさを見る。このように人を大蛇にする原因は皆自分にあると罪悪深重に驚き、その夜、そっと家を出て、ついに高野山に入り真言宗の僧となる。刈萱道心と名乗った。
彼が家を出た時、妻の千里に一子が宿っていた。後の石童丸である。大きくなった石童丸が、「なぜ僕には父様がないの」としきりに尋ねるので、千里はついに一部始終を打ち明けた。
聞くより早く石童丸は、父恋しい心が燃え上がり、母とともに高野山に向かった。しかし高野山は、女人結界の地なので母は登れない。ふもとで別れる時、
「おまえの父上は、人よりも背が高く左の眉毛にホクロのあるお方だよ」
と母は教えた。それを頼りに石童丸は、高野山の峰や谷の寺々をくまなく尋ね歩いたが、父上らしい僧に出会うことはできなかった。ある日、一つの橋を渡ろうとした時、左手に花を持ち右手に念珠を持って南無遍照金剛をとなえながら、刈萱道心が下ってきた。
もしや父上ではなかろうかと、石童丸は駆け寄って、その名を尋ねた。道心は不審に思ってよくよく見れば、その顔は妻に生き写しではないか。そのうえ、所持する短刀は、まさしく自分がかつて持っていたものである。
「おお、おまえはわが子、石童丸ではないか」
と、あわや名乗らんとした時、一切の恩愛を断ち切れと説く厳しい真言宗の教えを思い出し、今、名乗れば今までの十四年間の苦行は水の泡、声なき声に戒められ、
「そなたの尋ねている刈萱道心は去年の秋に亡くなられた」
と、心を鬼にして言い切った。一瞬泣き崩れた石童丸が、
「せめてお墓なりとも」
と頼むので、道心は仕方なく一つの新しい墓前に連れていく。
紅葉のような両手を合わせジーッと墓を見つめていた石童丸は、やがてワッと泣き伏した。
道心は張り裂ける思いに耐えながら、ようやく下山させたが、わが子の影が見えなくなると同時に、その場に打ち倒れた。石童丸が泣く泣く山を下りてみれば、ふもとでしきりにカラスが鳴いている。不思議に思いつつ家に帰ってみれば、哀れ、母は病のために亡くなっていた。やむなく一人の姉を頼りに筑前に帰ったが、その姉もこの世を去って四十九日目であった。
何たることか。そこで石童丸はいよいよ無常を痛感し、ついに意を決し、自分も父のみ跡を慕って出家しようと、再び高野の峰を尋ねた。再び登山して来たわが子に驚き、一切を聞かされた刈萱道心は、
「何、母が死に姉も死んだのか」
と、思わず知らずホローと一滴の涙を落としたのである。
この一滴の涙が、彼の十四年間の難行を、元のもくあみにしてしまったのだ。
◇ ◇ ◇
山にこもって妻子を遠ざけ、見ざる、聞かざる、言わざるまではできても、思わざるだけはどうしようもなかったのです。
恩愛はなはだたちがたく
生死はなはだつきがたし
念仏三昧行じてぞ
罪障を滅し度脱せし
浄土真宗の親鸞聖人のお言葉が、身にしみ入ります。
浄土真宗について
仏教にもいろいろな宗派があるけれど、どう違うのだろう?
このような素朴な疑問をお持ちになられたことはありませんでしょうか。
うちは、浄土真宗だけど
私のところは代々、天台宗だけど
結局、他の宗派との違いが分からず、子供に聞かれて恥ずかしい
思いをされたことがある、そんな方もあるかもしれません。
私もそうでした。
そこで、このブログでは、宗派の違いについて学んだことを書いて
いきたいと思います。
ちなみに私は浄土真宗なので、特に浄土真宗について詳しく紹介したいと
思います。
そうすることによって、他の宗派との違いもよりわかっていただけると
思います。
では早速はじめたいと思います!!
仏教を大きく分けると
・浄土仏教(他力仏教)・・・浄土真宗、浄土宗
・聖道仏教(自力仏教)・・・天台宗、真言宗、禅宗など
の二つになります。
さて、どう違うのでしょう?
聖道仏教とは、一言でいいますと『修行によって煩悩をなくし、助かろうとする教え』です。
では実際にそんなことは可能なのでしょうか?
まずここから始めたいと思います。
聖道仏教で傑僧といわれる人たちの逸話を見てみましょう。
今日は●華厳宗の明恵(みょうえ)●です。
栂尾の明恵は生来、雑炊が大好物であった。ある日、弟子の一人が、特に念を入れておいしい雑炊をこしらえ、師の居間へ持参した。明恵は机に向かって書見していたが、弟子のその姿を見て、「おお、今日は雑炊のごちそうか」と、子供のような笑顔で早速、膳に向かって箸を取り上げた。弟子は、心を込めて作った雑炊を、どのように喜んで召し上がるかと、ジッと師の口元を見つめていた。
ところが、雑炊を一口すすった瞬間、明恵の眉がぴくっと動き、口に入れた食物が何かノドにつかえてのみ下しかねている。自分の粗相かと、弟子は思わず声をかけようとしたが、その後の明恵の、あまりにも唐突な動作に驚いた。
さっと立ち上がると、傍らの障子の桟を指で軽くこすってほこりを集め、パラパラと雑炊にふりかけたではないか。折悪く、二、三日師匠の部屋の掃除を怠けていたせいか、桟には薄くほこりがたまっていた。そのようなことを二、三度くり返した明恵は、黙々と箸を動かし、何の感動も示さずに食事を済ませた。
「妙なことをなされた。これは、もう少し掃除を丁寧にせよとの注意に違いない」
と思った弟子は恐縮の体でかしこまっている。やがて明恵は、静かに語った。
「ワシは今妙なことをしたであろう。不思議に思ったであろう」
「申し訳ありません、以後しっかり掃除を致します」
と平伏する弟子に、
「イヤイヤおまえらの掃除のことを言っているのではない。実は、ワシはおまえが心を込めて作ってくれた雑炊を一口、口にして思わず、そのおいしいのに感嘆した。その瞬間、体の一部にうまい食物に対する執着が、蛇の鎌首を持ち上げるようにムラムラと起こってきたのだ。おいしい雑炊を作ってくれた、おまえたちの親切心だけを味わえばよいのに、ついに味覚のとりこになろうとした。実にあさましい限りだ。だから慌ててほこりを入れて、せっかくだが、うまい味を消して頂いたのだ。これでワシは、やっと口元の誘惑から免れることができた」
としみじみ述懐したという。
◇ ◇ ◇
栂尾の明恵といえば、華厳宗屈指の高僧とされています。その明恵にして、しかり。
実は煩悩はなくせるものではないのですね。
最後に浄土真宗の親鸞聖人の『和讃』を紹介いたしましょう。
自力聖道の菩提心
こころもことばもおよばれず
常没流転の凡愚は
いかでか発起せしむべき